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Ecco!No.6 一人一人の患者さんへたどりつく道を歩みたい

編集:認知運動療法研究会
製作:協同医書出版社編集部
(2004年9月26日)

沖田一彦:

 インタビューをお受けいただきありがとうございます.先生の来日をたいへん楽しみにしておりました.今年の3月にパンテ先生にも質問させていただいたことから始めさせていただきたいと思います.

カルラ・リツェッロ:

 どうぞ.

沖田一彦:

 今日の脳科学,認知科学では,脳のどこにどのような機能があるかということについての研究は,ひととおり山を越えたように思います.次の段階として脳の機能連合,つまり脳の各部位のいろいろな機能がどのように関連しているのかということに研究の興味が移ってきているように思います.それを受けて,イタリアでも訓練のなかで患者さんの知覚仮説を単に検証させるといった形から,意識とかイメージとか,そういったものを取り入れて訓練がだんだん変わりつつあることは私たちも知っています.しかし日本のリハビリテーションの現状では,脳の機能はそれぞれに関連し合って全体として働いているのだから,ある環境における経験を何度も繰り返しているうちに脳のそうした機能連合が働いて回復が起こるというような "全体回帰的な訓練観"が出てくるように思います.とにかく脳は全体として学ぶのであるから,それならたくさんの経験をさせていさえすればそれが認知機能の回復に効果的な訓練になりうる,というような言ってみれば"全体論"です.それが「認知」という名を借りた偽物であることは私たちにもすぐにわかります.ペルフェッティ先生がおっしゃったようになんでも「認知」と名がつけばいいということにはなりません.脳科学の関心や知見が脳の機能連合に向かっている今,リハビリテーションの観点から「治療的」であるということはどういうことなのかという点についてイタリアではどのように議論されているのでしょうか.

カルラ・リツェッロ:

 患者に"経験をさせる"ということは治療の核心になります.人間行動のすべては経験なのですから,たとえばボバースの訓練も患者にとっては経験なのです.昨日も講演でお話したのですが,認知理論を踏まえた訓練をするということはつまり認知過程に沿った,それにふさわしい活動をするということです.「認知を生きる」プロジェクトもそうした原則に従って進めていますし,認知のプロセスをさらに解明するというのがこのプロジェクトのひとつの大きな目的です.このプロジェクトの第一段階といってもよい最初の頃,私たちは「経験」ということを捉えるにあたって「意識的な経験」と言いますか,患者さんの「認識」というものがどのようなものであるかということを考えました.つまり患者さんの"意識的な"あるいは"認識的な"経験とはどういうことかということを考え,哲学者や言語学者と議論を深めました.「意識」というものをどのように定義するかということですが,リハビリテーションということに引き寄せて言えば,それは「自分自身の見方」,言い換えれば「自分自身が何であるかをいうことをどのように知っているか」ということになります.それも身体としての自分をどのように知っているかということがもっとも大事になります.ですから,私たちの仕事としては患者さんが身体を通してどのようにして自分を知るかということに注目しました.そうすると人間の身体がどのようにできているかという見方が大事になってきますが,自分の身体をどのように捉えるかは患者さん一人一人の意識によって違うわけですね.たとえて言えば,望遠鏡で見ている人もいれば裸眼で見ている人もいるわけです.私たちは「意識」あるいは「意識的な経験」というものが非常に重要なことであるという認識に至ったわけですが,それではそういうことを治療にどのように応用していくかということが私たちの次の課題になったのです.そこで出会ったのがフランシスコ・ヴァレラだったわけです.ヴァレラは「神経現象学」を提唱ましたが,彼は主体のありかたというものは物理的な主体のみではなく,同時に感情的な(emotional)ものももっていると言っています.たとえば今私たちはこうして椅子に腰掛けているわけですが,この椅子は硬さがどれくらい,この表面の感触はこんな具合といったようなことを感じていると同時に,今のこの雰囲気が非常に緊張しているとかリラックスしているといったことも同時に感じているわけです.ヴァレラはこうした物理的なものとは別の心的なものを現象学を使って説明を試みたのですが,ものをみる時に「すべての人に共通するもの以外の」,あるいは「その人にしかわからない"私の"」感覚なり認知があると言っています.ヴァレラは「三人称」とか「一人称」というような言い方をしていますが,外側からみている限りはわからない,つまり私は彼や彼女のみているものが本当のところはわからない,あるいは彼や彼女のなかで起こっている変化を彼らは感じているかもしれないけれど,本人ではない私にはそれは感知しえないということを言っているのです.主体にはそうした心的な過程があるわけですが,そうした作用を評価や治療という視点から利用していける可能性はないだろうかという考えに至りました.

 まず評価については,運動をそのような特異的病理な観点からみていく(motor-specific observation)ということになります。つまり患者の動きを観察してく時に彼らが「どのようにして動くのか」,そして「なぜそのように動くのか」ということを考えていくために,彼らが認知機能の何を使っているのか,あるいは使おうとしているのかを予想するために彼らの一人称的な表現を使おうと考えました.患者を評価する時に外側から観察するだけではなく,彼らに対してたくさんの質問をするようになりました.質問としては「どういうふうに感じますか?」とか「どんなふうですか?」といったことですが,これは患者がどのように感じているかということをきくための質問です.「認知を生きる」プロジェクトではまず主要な命題をたて,それに向けてたくさんのワーキンググループをつくって同時に研究を進めているのですが,その基本として,まず質問をする際にはできるだけ一般的な形で質問をするようにしました.たとえば「あなたの腕は重く感じますか,それとも軽く感じますか?」といったような二者択一的な質問は除外していきました.そうではなく「あなたは腕をどのように感じていますか?」「あなたの腕はどうですか?」というようにできる限り誘導の起こらない聞き方を考えたのです.そうすることによって患者は,たとえば「もう一方の腕と同じように感じます」といったような解答をするようになってきました.患側の腕について「この腕はもう一方の腕と同じようなものだ」という回答もあれば,「この腕は場所をとる邪魔なものだ」というような回答もあります.この2つの意味を比べてみると,前者については患者の意識的な経験というものが十分なものではないと考えることができます.そして後者については,この患者は意識的な経験を十分に積んでいると考えることができます.なぜなら患側の腕を邪魔なものと感じるには,それまでにその腕で何かを触ったのであろうし,その腕で何かをやろうとした時にそれが障害になったというような経験があるから,その腕が「邪魔なものだ」という言い方になったのだろうと考えられるからです.患者はそうした表現をすることになった経験を確かにしているのですが,だからといってそこで私たちは「邪魔ってどういう感じなの?」とか「どういうふうに邪魔なの?」といったような質問をして突き詰めていくことはしません。そうではなく,その記述と第三者として観察したことをはじめとするさまざまなデータとを比較し,関連づけてレポートを書きます.私たちがそこでやっていることは,一人称,つまり主体からでてきた評価データ,さきほどの例で言えば「腕が邪魔だ」という記述ですね,これと三人称,つまりそれを観察する私たちの評価データ,この主体と客体からの2種類の評価を関連づけることなのです.その関連づけを行う際に,そのことの神経生理学的な解釈が成り立つかどうかを検証しながら進めていきます.もしその解釈が十分でないことがわかったらさらに文献のリサーチを進めていかなければなりません.

 たとえば,小脳に障害のある患者の場合,こちらがどんな質問をしても「わからない」と答えます.「この手はどういうふうに感じますか?」と聞いても「わからない」.「歩いた感じはどうですか?」と聞いても「わからない」.あるいはスポンジを使った感じをきいても,あっけらかんと「わからない」と答えるのです.知らないことに対して特に恥じたり,気にしたりといったところがまったくなく,実にあっけらかんと,どんな質問に対しても「わからない」と答えるのです.小脳に障害を抱えた人はこのような傾向が強いのですが,そうするとこうした答え方に実は何か意味があるのではないかと考えました.その観点から文献のリサーチを進めながら多くの患者さんの答えを集めていくと,実は小脳は,何か問題を解決したり,イメージをもったりする際の認知過程に非常に重要な意味をもって介入していることがわかってきたのです.こうした見方をしていかない限り,小脳障害の患者さんは単に注意力が落ちているだとか無関心になっているだとかというような表面的な解釈に評価が向かってしまう,つまり自分たちの観察したことに対して誤った原因を求めてしまうと思うのです.

沖田一彦:

 すばらしい感受性ですね!

カルラ・リツェッロ:

 今申し上げた考え方に至るまでには長い時間がかかっています.2年間ぐらい,皆で定期的に会って議論を続けました.今,イタリアでは多くの仲間のグループがイタリアに散って同時に研究を進めています.なかにはテープレコーダーを使って患者の記述を集めているグループもあります.ですからたくさんの記述を集めることができますし,それを皆で検討しながらその特徴を洗い出してみると,小脳障害をもった人の身体表現の特徴といったものが現れてきました.そうしたことと文献リサーチとが協力しあった結果として,こうしたことがわかってきたわけですね.ですから評価というものが患者の記述によって変わってくるということになると,これまで自分がやっていた評価も患者の記述によって変わっていかざるをえないし,それに従って自分はどういった訓練を考えなければならないかということが変わってくるのです.そうすると訓練の方向も変わってきて,訓練の目的が患者に「情報(information)」を探させるということになってきたのです.たとえば今までは患者に対して「どのスポンジが硬かったか,軟らかかったか」というようにスポンジの硬度をきいていたわけですが,そうではなくて今度はスポンジの「表面」とは何かを理解してもらうというように訓練が変わってくるわけです.

沖田一彦:

 もう少し詳しくおきかせ下さい.

カルラ・リツェッロ:

 これは最近のことですが,私たちは「情報」とは何かということを考え始め,いろいろな学者の文献を読むようになったのですが,そのなかでもベイトソン,チャルマース,ラボーリ,ドレスラーといった人たちの文献を詳しく読んでいて,特にベイトソンとチャルマースに注目しています.ベイトソンが「情報」をどのように定義しているかというと「情報とはひとつの物理的な差違が認識的な差違を生み出すことである」と言っています.またチャルマースは「情報とは各種の状況からひとつの状況を選択することである」と言っています.この2つの定義はそれぞれに少し異なる考え方ではありますが,自分たちのリハビリテーションに活かすことができないかと考えています.

沖田一彦:

 さきほどおっしゃったことと今おっしゃっている「情報」との関わりは非常に深いという気がするのですが,患者への質問がスポンジの硬さをきくということからその表面の感じについてきくということに変わってきたということはつまり,その両者の質問の間で何が変わったということなのでしょうか.

カルラ・リツェッロ:

 まずスポンジについてどっちが硬いか,あるいは軟らかいかをきくことについて,その硬軟は病理をもっていない人たちの間では共通認識になりうるわけです.ところがそれをきく相手になんらかの損傷があるがためにそれがわからなくなっているかもしれないわけですね.硬い,軟らかいといったことの意味さえわからなくなっているかもしれないのです.そうすると患者に対して「硬い・軟らかい」といったことできくことはやめて,まずその表面を触ってもらってその感じをきく,最初は何も答えないかもしれないけれどもそうした経験をしてもらうところから始めるのです.そうした意識的な経験をしてもらうことによって患者はいろいろなことを言ってきます.たとえばくすぐったいとか,触られているみたいだとか,肩にスポンジを当てると肩が動いているようだとか,そういったことを言ってきます.そうした回答は,私が患者に"選ばせた"解答ではありません.彼ら自身が自分の経験していることについて述べた回答です.それを受けてはじめて私は彼らに差違を理解してもらうための訓練に入っていきます.彼らの使った言葉を私も使って,たとえば「この感じですか,それともこの感じですか?」とか「触っていますか,触っていませんか?」などといった質問をし,この質問の場合だとスポンジが触っているかいないかの差違をみていくわけです.こうしたことから始めながら訓練を進めていくのです.また,先ほど言いました手が邪魔だ言う人たちは自分の手が彼らにとって変な形をしていると感じている人が多いのですが,健側から動かして「この動きには邪魔な感じはないですね?」という具合に自分の手が邪魔なものではないことをわかってもらいながらそれを患側の感じ方をイメージする時に構築してもらいます.その時に大事なことは,そのイメージは患者にとってあくまで"私がもっている"イメージだということです.つまり「手は本来邪魔なものではなく自由に動くものなのですよ」といった第三者がもちうるイメージではなく,患者本人の感覚に基づいたイメージの構築をしなければならないのです.あくまでも患者が健側にもつイメージを患側に自分で移してもらわなければならないのです.それを助けるのが治療なのですが,これはつまり患者の記述によって評価が生まれ,その評価に従って訓練を行っていくなかで患者が自分の身体について違ったことを感じることができるようになり,なおかつそれによって患者が自分の身体について感じていることの記述を変えてくるということが目的になるのです.

 こうした評価や治療を展開していくにあたっては,先ほど言いました「情報」ということが非常に大事になると考えます.重要なのは"可変性(variability)"です.さきほどベイトソンの言葉を引いて「物理的な差違が認識的な差違を生む」という情報の定義を紹介しましたが,たとえばこのボールペンについて,ここは触っていて大変スムーズだとか,いまは水平に位置しているとかいったように,ボールペンの状態を説明するやり方はいろいろあります.これはどういうことかと言いますと,もの,この場合はボールペンですが,どんな側面から説明してもボールペンものが変わるわけではありません.いろいろな説明ができるということがそのもの自体がいろいろあることを示しているわけではないし,ましてやそれを説明する私が何人もいるわけでもありません.ものに違いがあるわけでもなく,それを説明する私がたくさんいるわけでもない.要するに,その違いは私と対象物との間の関係性にあるわけです.治療においては患者にそれをわかってもらわなければならないのですが,それは言い換えれば,患者にいろいろな経験をしてもらいながら,患者の脳と身体各部との関係にいろいろな説明,先ほど言いました可変性があるということを理解してもらうということなのです.これまでの訓練,たとえば皆さんもよくご存知のタブレットを使った訓練では回復の時期に応じていろいろな形状のパネルを使って識別の訓練を行っていたのですが,今は同じパネルを使っていろいろな経験をしてもらうというやり方に変わっています.そのほうがいろいろな情報との関係を脳に経験させることができると考えているからです.

沖田一彦:

 たとえば傾きを変えたり,面を変えたりといったことでしょうか.

カルラ・リツェッロ:

 そうですね.たとえば丸と四角があって「これとこれとは同じですか?」とか,丸であれば「それはあなたの前にあるのか,横にあるのか,下に置いてあるのか?」,あるいは傾きを変えたみたり,あるいは別の丸を出して「これはさっきの丸と同じか?」という具合ですね.

沖田一彦:

 すると同じ丸を使ってもここで触った丸と,それを傾けてあるいは面を変えて触った時の丸の違いがあれば,何が違うのかを考えてもらうということですね.

カルラ・リツェッロ:

 そうです.

沖田一彦:

 これまでは違いを識別するのにその違いをあれかこれかという具合に当ててもらっていたわけですが,そうではなく自分のなかに生じる差違について考えもらうということに変わってきたということでしょうか.

カルラ・リツェッロ:

 この違いというのがどういうことかと言いますと,今,当てる/当てないという表現をされたのですが,当てるというよりは「比較」ということになるかと思います.というのは当初の訓練においても,患者に対してある程度の方向づけをしてはいました.少なくとも従来は,患者にとって自分の向かっているものが目に見える形で訓練を提示することが多くなっていました.見ることによって,たとえばこのボールペンであれば,それを見ることによってある程度の情報が視覚的にも入ってきます.閉眼であればスムーズであるとかざらざらしているといったように触覚できくわけですが,それでも最初はその対象を見てもらいます.その視覚的な情報とスムーズあるいはざらざらといった触覚情報とを比較してもらうという形で訓練を実施してきたのですが,最近はそれを見せないということなのです.たとえば目を閉じて触らせたうえで「これはさっきあなたが持っていたボールペンなの?」と質問するというように変わってきました.これはどういうことかと言いますと,これまでは情報の「収集」ということに重点をおいていたものが,現在では情報の「構築」ということを患者に期待しているということです.つまりその物体に触ることでわかることが長さであったり密度であったりするにしても,患者がそうしたなかのどの情報を使っているのか,物体がもっているいろいろな特性のなかでどの特性を自分の判断のために使っているか,求めているかということを患者の言葉から理解しようとしています.

沖田一彦:

 そうするとセラピストの役割というものが昔とはずいぶん変わってくるのではないでしょうか.個人的には"発達的な観点",たとえば子どもがそうした情報をどうやって構築していくのかといったことも問題になってくるように思いますが.

カルラ・リツェッロ:

 ご質問の第一点についてですが,やはりセラピストの役割は変わってきていると思います.どのように変わってきているかというと,ヴァレラの言葉を借りれば,彼はそれをセラピストだとは直接言ってはいませんが,「仲介者」としての役割が重要になってきたと思います.つまり主体と客体の情報を解釈する,一人称の記述を三人称で客観化するための仲介をするという意味において「仲介者」という役目を果たすということです.ですからセラピストの役割というのは非常に繊細なものになってきています.その解釈によってどんな情報が患者にとって有益なのかという判断が求められてくるのですから.

沖田一彦:

 そうした治療的な介入の仕方を考えますと,これは質問の第二点に関わることですが,どうも母親が子どもを教えるような発達的な観点を踏まえておくことが必要になると思うのですが.

カルラ・リツェッロ:

 発達的な観点にたって情報を教えていかなければならないということをおっしゃっているのだろうと思うのですが,患者というのは最初,情報の構築ということについて何かを考えているわけではないことが多いように思います.何も考えていないのだけれども感情をもっている.情報の構築ということで言えば,それは何段階かの順序を追っていかなければならないと思います.患者にとって最初の出発点とは何かと言いますと,それは患者自身の経験です.最近担当した患者でこういうことがありました.この方はスポンジの硬さがわからないのですが,その方といろいろ話していて,硬い・軟らかいだけではなくて,ふわふわしているとかやさしいものとか,そうした視点で話していきますと,この方の娘さんはアンナという名前なのですが,軟らかいことを「アンナみたいだ」と言うようになりました.で,硬いものとかざらざらしたものは「ジャンニみたいだ」と言うのです.これは自分のわがままな息子のことです.そしてもう一人,ジュセッペという息子がいるのですが,これはアンナとジャンニの中間的なものを指すようになりました.これは彼女の今までの生活経験から出てきたものなので,私たちはそこを出発点としまた.

 第一の段階ではこうした経験を踏まえてアンナらしいものとジャンニらしいもの,あるいはその間のジュセッペらしいものとの違いを知るということから始めました.彼女に情報を構築してもらう第一段階をこうしたことから始めたのです.右側に軟らかいスポンジ,左側に硬いスポンジをおいて「どっちがアンナですか?」「どっちがジャンニですか?」というきき方をしたりもしました.彼女はたとえばアンナを感じるためにそのスポンジを押したり引いたりするわけですね.そうしたことを通して彼女はアンナという情報を得るのです.このようにまずはどのようにして知るかということを患者に教えたのです.そして情報構築の第二段階は何かと言いますと,同じものを知る,あるいは違いを知る,そして違いのなかにもいろいろな違いがあるのですから違いの細部を知るという段階です.で,この第二段階においていろいろなことを知るためには自分の身体を使わなければならません.身体を細分化して知らなければならないのです.それはつまりいろいろと細かなことを知るためには自分の身体を細分化する必要があるということ自体を知り,そのやり方を覚えなければならないということです.これを構築する段階になって,この方は歩き始めました.こうしたことは先ほどおっしゃった"発達的観点"についてお答えしたことになるでしょうか.

沖田一彦:

 了解しました.もう少しお聞きしたいのですが,時間もせまっていますので次の質問に移らせていただきます.最近になって,認知運動療法は日本の新聞やテレビで紹介されるようになりました.しかし,「認知運動療法はイメージトレーニングを応用したものである」と報道されたりして,一般の方には誤解されて伝わっている面が少なからずあるように思います.一般の方のみならず,リハビリテーション関係者にとってもなかなか理解されづらいところがあり,いろいろな面で悩みをもっているも事実なんです.

カルラ・リツェッロ:

 今までお話しした内容は言わばマスターコースレベルの話です.患者さんはもとより,一般のリハビリテーション関係者にとっては,「こういった高いレベルに私なんかは到達できないよ」と思う人の方が多いのではないでしょうか.イタリアでも同じ問題を抱えています.大きな会場にたくさんの人を集めて学会を行っても,そうした考え方を誰もが理解するわけではありません.ですから私たちはそうした学会を行うことと同時に,少人数の非常に簡単な内容で小さなコースをいくつも開いています.具体的にやり方を示していかないと,最初から大上段より難しい理論を突きつけられてしまうと続いていかないように思います.ドイツ,オーストリア,スペインなどでもこうしたコースをそれぞれ独自にやっています.時にはペルフェッティ教授にメールでアドバイスを求めてくることもあります.日本の皆さんもそうしたことを独自にやっていけるのではないかと私は思います.もちろん1年に1回くらいは私たちがこうしてイタリアからやってきて話すというのは活動の柱のひとつとして続けていいと思いますが,独自に小さなコースをやって広めていくことは可能だし大事なことではないでしょうか.

沖田一彦:

 「認知を生きる」プロジェクトのめざすところは人間を理解すること,傷ついた人間に人として医療者としてどのように向き合っていくかという,人間の本質に関わることを主題にしているのだと思います.このプロジェクト,すなわち神経認知リハビリテーションの本質とは何かということ,そしてイタリアから離れて私たちがそこから学ばなければならないものは何かということについて,リツェッロ先生のご意見をおきかせいただきたいと思います.

カルラ・リツェッロ:

 このプロジェクトの目標については,今までお話してまいりましたいくつかのことを通して,おっしゃるように人間とは何かを理解すること,障害とは何かを理解することにあると思います.しかし最終的にはより多くの知識を得て,それを治療に使っていくことがこのプロジェクトの目的です.このプロジェクトは終わったわけではありません.この10月にはイタリアでも学会が行われます.そこでは今お話してきたような「情報」の役割についての報告がありますし,"認知-感情的な"意味での回復という概念についての提言もこの学会で示されることになっています.このプロジェクトはまだまだ続いていくということです.

沖田一彦:

 日本ではどうしてもやっている訓練課題そのものに皆の関心が集まるきらいがあり,それは私たちも注意しているところなのですが,私たちがイタリアからまず学ばなければならないのはその考え方ではないかと思うのです.

カルラ・リツェッロ:

 まず言いたいことは「恐れるな」という言葉です.昨日の講演でも言いましたが,今やろうとしていることは大変なことだということは確かです.常に努力が必要ですし,常に研究が必要なのですから大変です.しかし,常に努力し,常に研究するということは同時に喜びでもあります.そして研究あるいは探索から得たことを臨床に活用していくということが大事だと思っています.リハビリテーションとは人をよくする道であるということを理解していただきたいと思います.そしてこの道は常に成長し,前へとつながっていく道であることを理解してください.セラピストはこれから閉ざされていく道を選ぶこともできるし,前へ向かって進んでいく道を選ぶこともできます.言い換えれば,今進んでいる道で得たものを生かすこともできるし殺すこともできるのです.千人というのは大変な数ですが,こうした人たちが孤立した形で仕事をするのではなくて,お互いが常にコンタクトをもてるようなシステムを考え出していただきたいと思います.年に1度の学術集会というだけでなく,日常的にコンタクトを保っていけるような小さなグループがたくさんできればいいですね.

沖田一彦:

 ありがとうございました.来年のマスターコースでまたお会いしましょう.

(2004年9月 第5回日本認知運動療法研究会学術集会にて/通訳・松葉包宜)

カルラ・リツェッロ(Centro Studi di Riabilitazione Neurocognitivaリハビリテーションセラピスト)
沖田一彦(広島県立保健福祉大学)

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