認知神経リハビリテーション学会

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メッセージNo.36  「証明するものはありますか?」

 天気のよい日曜日、ある家族が「動物園」に入場しようとしている。両親と小学生(低学年)の男の子である。その子はアテトーゼ・タイプの四肢麻痺だが身体を大きく左右に揺らしながらも、何とか一人で歩いている。
 両親はチケット売り場の窓口で入園料を払おうとする。その時、次のような言葉がチケット売りの若い女性から発っせられる。

 「証明するものはありますか?」

 両親は「手帳」を示し、自分たちは全額、そして子どもの分は恐らく半額を支払って入場した。チケット売り場の女性は規定の入園料を受け取った。それが彼女の仕事である。何の問題もない。この話はこれだけである。ある日曜日の、動物園での平凡な光景である。気にすることは何もないのかも知れない。

 ところが、気になるのである。一体、何を証明する必要があるというのだろう。確かに身体障害者が入園料の割引を受けるためには、身体障害者手帳を示す必要があると法律で定められているのだろう。だから、彼女はそれを見せるように要求したのだろう。

 僕が彼女に言いたいのは、自分の目で見て「その子が運動麻痺を有していることがわからないか」という点である。その子の大きく左右に揺れ動く歩き方を見て、身体が不自由なことは一目でわかったはずである。その歩き方以上に、何を証明する必要があるのか。

 自分の判断で、手帳を示せとは言わずに、最初から子どもの分は減額した入園料の総額を頭の中で計算して両親に伝え、それを受け取りながら子どもに向かって、「頑張って全部見てね」とか、「象はいないけれどキリンがいるよ」とか、「疲れた時に車椅子は必要ないですか」とか、何か一言、子どもに話しかけて、彼とコミュニケーションし、両親や彼の笑顔を引き出すことはできないのだろうか。

 仕事というものは、単に決められたことをやればよいというものではない。どんな仕事であれ、個人の想像力が要求される。特に、相手に対する想像力が仕事の内実を豊かなものにする。そうでなければ、入場料など自動販売機でよいという世の中になってしまう。

 外国では何を買うにしても自動販売機は少ない。それは自動販売機を壊す窃盗者がいるからでもあるが、新聞、タバコ、バスの切符などもすべて人から買う。イタリアではバール(喫茶店)でバスのチケットを買う必要があるが、あるスキオのバールで働く若い男の店員は僕がバスのチケットを買う度にいつも「日本人の女を紹介してくれ、俺はイタリア女はいやだ」と小声で囁いていた。最初こいつは「バカ」かと思ったが、よく観察すると、その店員は一般のイタリア人にも、日本人にも、そして先進国でない国々から働きに来ている社会から疎外されているように見える人々にも、浮浪者のような人間にも、同じように何か言っている。そして、チケットの売買という儀式の後に、必ず両者が軽く「笑う」のである。この笑顔の交換を引き出すくだらない会話が、バールを生活の糧とする彼のプロフェッショナルの証であり、客はいつしか彼に親密感を覚えるようになる。しばらくすると、僕も、この店の常連の一人として回りの出入りする客から何となく存在を認められ、よそ者ではない、そのバールに根づいた地域社会の一員になったような気がした。今度店に行っても、彼はまた「日本人の女を紹介してくれ」と僕に同じことを言うだろう。それは実は僕が家族とではなく、池田由美さんや山田真澄さんがサントルソで研修していた時に一緒にチケットを買ったのを憶えているからそう言っているわけで、それはチョット困るが、彼は案外いい奴ではある。

 もし、彼が動物園でチケットを販売していたら「証明するものはありますか」などとは言わないだろう。何かもっと、彼という一人の人間としての「言葉」を発するだろう。

 日本社会から地域の個人商店が消え、こうした人間のコミュニケーションが消滅している。かつて子どもは近所の駄菓子屋や玩具店で、個性あるおばさんやおじさんから、人間同士のコミュニケーションの仕方を無意識に学んでいた時代があった。その消滅が動物園のチケット売り場の対話に反映されているように思われてならない。

 そして、リハビリテーションの臨床でも同じことが起こっている。

 いや、そんなことはない。確かに、最近の学生や若いセラピストにはそんな傾向があるかも知れないが、僕らの病院では、セラピストは患者とよく会話していると、あなたは思うかも知れない。
 だが、僕が指摘したいのは、その意味でのコミュニケーションだけではないのだ。

 それは、患者の身体という物体を単に曲げたり伸ばしたり、足に錘という物体をつけて筋収縮を繰り返したり、平行棒という物体に助けられての歩行訓練を繰り返すという運動療法の現状。こうした毎日繰り返される決まりきったチケット売り場のような運動療法では、生きる患者の身体と物体とのコミュニケーションは図れないということへの想像力である。

 行為とは、世界との対話である。世界が物体であるなら、身体を使って物体に意味を与える運動療法が必要である。物体が変わるわけではない。物体は何も変わらないのだ。身体を使って物体に意味を与えることで、物体の固さや、表面素材や、重さを知ることで、そうした身体と物体とのコミュニケーションによって、患者の脳が改変されてゆくのである。それが運動機能回復への道である。

 セラピストは、単なる患者との日常的な会話という次元を超え、身体と物体とのコミュニケーションという視点から患者の言葉(一人称の意識経験)を引き出しながら、世界に意味を与えるための運動療法を展開してゆく必要がある。

 今のリハビリテーションの臨床に、あなたの仕事に、それを「証明するものはありますか?」

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