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メッセージNo.43  「アラン・レネ 「二十四時間の情事」の”手”」

 この映画は批評家たちも指摘しているように、記憶についての映画です。エマニュエルはNevesでの出来事の思い出が原因で自分の人生について心理学的な問題を抱えています。

 広島での日本人青年との出会いをきっかけに、思い出(状態)を記憶(行為)に変換し、自分の困難を乗り越えて生くと、イタリアの映画批評家G.Fofiは解説しています。この点も認知神経リハビリテーション専門家にとっては興味深い研究対象になるとおもいます。

 私には、認知的現象学的レベルでのこうした変化を、レネはエマニュエルの手の行動で現していると思います。

 この映画には、エマニュエルの手と外部世界の関係が繰り返し何度も映し出されます。それらは攻撃的な、接触の関係です。おそらくあまりに親密で即時的な関係です(つまり視覚ではなく、運動覚・接触という手による関係が)。

 最後のほうのシーンのひとつで、エマニュエルが日本人青年に自分の変化を説明するところがありますが、そこでは彼女の手はまったくそれまでとは異なった動作をしており、世界との相互作用のしかたが変化したことを示唆しています(世界との接触はなく、自分自身に向けられている)。

 そこで、次のような作業をしたら面白いのではないでしょうか。

 a.上に述べた仮説が可能であるかをチェックする(仮説がまったく外れている可能性だってあります)。

 b.手と世界の関係が映し出されているシーンをすべて見直して、その映像から、キネシオロジー、認知的意味、そしてさらには意味にまでさかのぼってみる。映画の最後の部分の手や視線の映像を見直して、私が見落としている何かがあるかをチェックする。

カルロ=ペルフェッティ 2008.9 (小池美納訳)

 *
 二十四時間の情事と手と認知神経リハビリテーション
 ―感情的なトラウマ(精神的なショック)からの回復という視点―

 科学者が記憶とは何かについて語る時にはプルーストの「失われた時を求めて」のエピソードを語ることが多い。だが、イタリアのリハビリテーション専門家ならば、イタロ=ズヴェーヴォの「ゼーノの意識」に記された数々のエピソードを思い出すことだろう。

 一方、記憶は、神経心理学(認知心理学)の研究テーマでもある。記憶について神経心理学者のルリアは、「脳にとって自分の過去を振り返ることは、自分の未来を確かなものにすることにつながっている」と述べている。また、オリバー・サックスは、「人生とは回想であり、記憶の集合体であり、自分が誰であるのかを証明するものであり、自我を形成するものである」と語っている。

 そして、ローマの心理学者Oliverio Albertoは、「L’Arte di Ricordare」という本の中で、「感情的なトラウマ(精神的なショック)」について次のように述べている。

感情と記憶が分裂することや、トラウマと結びついた感情が人間性に大きく影響することにより、記憶システムが二つに分裂し、一つの肉体に二人の異なる人格が生まれることは、結局、「心で感じることと頭で理解することが分裂する現象」といえるのかも知れない。

 この「心で感じること」とは現象学的な意識であり、「頭で理解すること」とは認知的な意識である。

 ─私は、ペルフェッティ先生から与えられた今回の宿題に対し、映画「二十四時間の情事」における主人公の女性の手の動きを、意識経験(言語記述)の観点から分析する。

 *分析(1) [地下室での意識経験の記憶(言語記述)]…感覚器官としての手の欠損

(セリフ)
耐え難い苦しみ認知的な意識(情動的な記憶)
地下室は、とても狭い…視覚(三人称)
国歌が聞こえる、耳が痛いほど…聴覚(三人称)
暗くて、何もできない…運動(三人称)
壁を手で引っかき、…触覚の欠損(触覚や痛みを感じない=感覚器官としての手の欠損)
血を眺めたわ、毎日…視覚(三人称)

そして、血が好きになったわ
私はあなたの血を舐めて
味わったの異常な現象学的な意識(一人称)

 彼女は、恋人を失い、その悲しみという情動の記憶に強く支配されている。その結果、感覚器官としての手の触覚機能を失っていると解釈できる。だが、実際には、生物学的な手の触覚機能は麻痺(欠損)してはいない。彼女にとって手の触覚は、恋人と過ごした時間の内にしか存在しなくなってしまっていると考えられる。その理由は、恋人を失うという情動の記憶による心的外傷(感情的なトラウマ=精神的なジョック)が、生物学的な感覚器官としての手の機能を奪いとっているからだと解釈できる。

 *分析(2) [人生の喪失感からの回復に向かう経験]…感覚器官としての手の機能回復

髪が伸びてくる自分の髪に手で触れて過去の感覚を想起するシーン
毎日、手で確かめる部屋のベットで自分の髪に手で触れるシーン
確実に
毎日、髪が伸びてくる感情的なトラウマからの回復(予期)

 ─これらはすべて手の触覚による経験である。

 このシーンで、彼女は、手で自分の髪に触れ(触覚探索)、手を感覚器官として使い、喪失感からの回復を予期し始める。その回復への予期が、手の触覚による経験の言語として表現されている(髪が伸びるのは手でなければ感じ取れない)。

 彼女は、心で感じることと、頭で感じることが、一致し始めた時、パリへと旅立つ。

 *認知神経リハビリテーション

 脳卒中片麻痺となって手足が麻痺することは、患者に感情的なトラウマ(精神的なシヨック)」を与える。その認知神経リハビリテーションは、まず第一に、患者の意識経験(精神)を言語分析によって解釈し、現象学的な意識の高まり(異常な情動や過去の記憶の支配)を抑制するために、手の心的イメージの想起を求め、その後、段階的に認知的な意識を取り戻す訓練(手による外部世界の知覚探索)へと進めるべきであろう。

 ここで私は、2007年にサントルソで開催されたマスターコースでの「複雑な心的現象としての心的イメージ」と題されたカルラ・リゼロ先生の講義を思い出す。そして、アルベルト・オリヴェリオ(Alberto Oliverio)の言葉を記した一枚のスライドを発見する。そこには、次のように記されている。

 情動は記憶の生物学的側面からしても重要である。なぜなら、情動は記憶を「調節する」働きをもつからである。現在の情報は過去の情報によって補完されるのである。

(Oliverio A: Esplorare la mente, Raffaello Cortina ED, 1999)

 ─認知神経リハビリテーションにおいては、情動や記憶と運動イメージとの関係性を研究してゆく必要がある。

 *映画を観ての全体的な感想 ─デュラスの文学の基底―

 映画「二十四時間の情事」において、手の動きは、彼女の心理のメタファーとして写し出されている。その理由は、アラン・レネが、デュラスの文学の基底を流れる「人間性の喪失(疎外)への恐怖感」のさらに奥底に(デュラスの文学には過去のホロコーストへの現在の怒りや過去の肉体的な性愛をめぐる現在の物語が多い)、「身体性の喪失(疎外)への恐怖感」が存在すると読み取っているからに他ならない(この映画に、手のシーンが多いのは、その意味を観客の深層心理に訴えるためであろう)。

 それが、この映画を単なる反戦や愛の映画ではなく、一人の人間が社会的、肉体的な疎外から回復する過程を描いた歴史的名画へと昇華させている。

 そして、この人間存在への「まなざし」こそが、社会的、肉体的な疎外(心と身体の分離)から患者を回復させようとする認知神経リハビリテーションの思想と重なっている点であると思う。

 記憶とは単に記録と再生ではなく、自分の価値観と観点に基づき能動的に再分類、再構築、想像する作業である。
 (G. A. エーデルマン…オリバー・サックスより引用)

 "Memory is never a simple recording or reproduction but an active process of re-categorisation of reconstruction of imagination, determined by our own values and perspectives.
 (Gerald M . Edelman, as quoted by Oliver Sacks)

(宮本省三 2008,10.・1)

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