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メッセージNo.46  「セザンヌの秘密」
−第3回認知運動療法アカデミア参加者への宿題−

 [メルロ=ポンティ、セザンヌの懐疑、クレーの言葉]

 2009年1月、サントルソ認知神経リハビリテーションセンター(認知運動療法マスターコース)におけるカルロ=ペルフェッティの講義では、セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」が取り上げられた。これは哲学者のメルロ=ポンティが書いた「セザンヌ論」を思い出させる。

 メルロ=ポンティがセザンヌを高く評価するのは、セザンヌが「客観的(写実)」でも「主観的(印象主義)」でもなく、何らかの新しい描き方によって、物体の位置、輪郭、形態、あるいは表面、固さ、重さといった物質的な特性を描くことなく、外観としての物体の実存性を表現したからに他ならない。これを人は「セザンヌの懐疑」と呼ぶ。同じ画家のクレーが述べているように、「芸術とは、見えるものを描くのではなく、見えないものを見えるようにすること」なのである。

 なぜ、ペルフェッティは認知運動療法の講義にセザンヌを取り上げたのだろう。その意味を理解するためには、セザンヌの懐疑とは何かを考えてみる必要があるだろう。

 ここでは「セザンヌの秘密」と題して、美術評論家ゴットフリート・べームの「部分に対して全体性が優位を占めること」と「現実化するとはどういうことか」という二つの文章を提示する。まず、セザンヌの描いた「サント・ヴィクトワール山」を見つめ、その後にこの文章を真剣に読んでほしい。

 そして、ここからが宿題なのだが、「部分に対して全体性が優位を占めること」の「部分」を四肢各部の触覚や運動覚の意識化に、「全体」を行為時の運動イメージの総体に置き換えて考察してみてほしい。次に、「現実化するとはどういうことか」では、コンテクストを行為の「文脈」に置き換えた上で、脳の情報の構築における「差異」と「類似」について考察してみてほしい。

 そこからきっと患者の観察や治療における新しい解釈が芽生えるはずである。見えないものを見えるようにすること。それは脳損傷からの回復に向かう患者と認知運動療法を提供するセラピストに取って共通の課題でもあるのだ。

*

 「部分に対して全体性が優位を占める」

 全体の印象が諸部分よりも上位を占める。つまり、事物やその性質、細部よりも画像の全体性が上位を占める。全体印象に向かうこと、そして、その基準に従って全体印象に従属する権利を個々の事物や要素に与えること。これらのことに努力が向けられる。造形的な個々のものが継起的に生じることよりも、全体が同時に生じる形式の方が支配的である。

 このようにすることは、画像という概念のアカデミックで一般的な考えを逆転させる。アカデミックな考えでは、人物や事物の輝きおよび明瞭さを犠牲にするという対価を払ってまで全体の効果を目指そうと努めることなど、決してなかっであろう。

 セザンヌは違う。先に述べた観察は、そこから彼のどの画像を分析するためにも決定的である。画像のテクスチャーについて、あるいは、色斑の絨毯であるこの織物について語ったならば、そのときには全体の秩序がはっきりと目に見えるかたちで優位となっていることも映し出されている。その結果、構図上の配置がもつ価値も解体されてしまう。描かれた事物同士のバランスが画像の統一を決めるのではなく、事物が色斑の平面と編み合わされることによって画像の統一が基礎づけられるのである。

 サント・ヴィクトワール山は、見られるものがこのように変化した明らかな例であり、そこでは、事物とその性質の自律性は、様々に観察される危うさと匿名性によって、事物は皮を剥がれたようにして現れてくる。それとともに気づかれるように、このように部分に対して全体が優位を占めることは、近代の絵画において大きな役割を果たすことになる。

 「現実化するとはどういう意味か」

 サント・ヴィクトワール山へ「観者が登る」には、考えながら見る準備をしておくことが必要である。セザンヌは彼の行為の複雑さを自覚していた。色斑の秩序から画像が生まれ、そして、筆の働きがひとつの世界の解釈に飛躍するという、経験における画像のあり方の激変、この計りえない出来事には――すなわち、この最も内的な絵画のプロセスには、ふさわしい概念がほぼないということを彼は知っていた。だからこそ、いっそう私たちは彼の好んだ言葉のひとつに注目すべきであろう。その語で彼は、自らの芸術的制作を統括するものを言い表していた。その語とは、現実化する(realiser)、または現実化(realisation)である。

 現実化するということがさしあたって意味しているのは、置き換えの過程に他ならない。それによって画家が、見られた事物を「色彩の感覚(色彩の視覚情報)に翻訳するのである。しかしながらセザンヌは、見ることについて語るとき、まったく別のことを意図している。とりわけ彼は、物やその多様な性質のことは考えていない。セザンヌは折に触れて「忘却の行為」とも呼んでいた。現象学の言葉で言えば、セザンヌは彼の現実に関する知識を括弧に入れ、直観的還元を行った。まったく文字通りに、彼は現実に関する知識を無視したのである。印象を生み出す事実から、その得られた印象を分離すること、この方法によって、こわばりいわば凝固した現実という呪縛を打ち破ることができる。

 絵画と自然との間にある抽象化ないし溝。この赤、緑、茶、黄、青の色班の連続と、はっきりと目に見える豊かな現実とは、何を共有しているのだろうか。これを理解することは、セザンヌ芸術の魅惑的な秘密のひとつである。この多義的な読みの可能性は、画像構造の個々の要素に支えられているのではなく、これを支えているのはコンテクスト(context)、つまり「色=形の織物」である。色の塗り方が形を決定している。個々の色斑には現実的なものは何も割り当てられていない。しかし、私たちは、コンテクストから極めて十分に現実的なものの様相を読み取る。つまり、影に覆われた谷間、そこにある家並み、草地、雲の反射等を読み取るのである。もう一度精確に言えば、画像の中の個々の要素はまったく何も意味せず、厳密な意味において、それは意味を欠いている。コンテクストをなぞることによってはじめて、ひとつの世界の豊かさが出現するのである。

 サント=ヴィクトワール山のあらゆる知覚は、常にそして同時に「色斑の織物の知覚」であり、その読解である。現実化するということは、一時的で不安定な感覚を確固とした現実の領域へと高める。持続の中に現象を救い出すこの傾向を見逃してはならない。

 サント=ヴィクトワール山の画像を見る者は、この画像から常に、ある現実を思い起こす。それは、観者が絵画の外にも位置づけることのできる現実であり、観者はこの現実に、単に似ているというだけでなく、より現実的なものとしても向かい合うことができる。現実化することの意味は、それがもつ概念的な射程を越えたところを指し示している。

Gottfried Boehm:Paul Cezanne Montagne Sainte-Victoire, Frankfurt am Main,1988.
ゴットフリート・ベーム著(岩城見一・訳):ポール・セザンヌ<サント・ヴィクトワール山>
,三元社,2007

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