認知神経リハビリテーション学会

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メッセージNo.54  「鏡の中の触覚」/「秘密を解き明かす言葉たち」

 鏡の中に自分の顔と上半身が映っている。左手で右頬や右腕に触れてみる。すると、右手が左頬や左腕に触れているように見える。
 不思議に想うのは、この視覚的な左右反転現象ではない。不思議に想うのは、触覚の左右反転現象である。なぜなら、鏡の中に映っている他者であるかのような自分の身体に触覚を感じる。これは触覚の「錯覚」でもないし、杖で地面の固さを感じ取るような触覚の「延長」でもない。これは触覚の空間的な「転移」であり、他者への「共感」の始まりなのではないだろうか?

 ジョナサン・コール(Jonathan Cole/英国プール病院臨床神経生理学医長)が書いた「顔の科学(about face):自己と他者をつなぐもの/茂木健一郎監訳・恩蔵綾子訳、PHP、2011」の第7章「壁から跳ね返ってくるボールのように」には、ドナ・ウィリアムズ(Donna Williams)の「自閉症だったわたしへ(nobody nowhere)/河野万里子訳、新潮社、1993」という本のエピソードを下書きにした、鏡に映る顔をめぐる、自己と他者の関係性についての興味深い記述がある。


 たいていの人は、当りまえのように、我々は身体の中に住んでいると思っている。我々は身体を、我々の心が住む場所として、一つのものとして、とらえている。

 子供の時、彼女は鏡をじっと見つめ、その中にいる人物と親しく会話をして、彼女に名前を与え、彼女にさわろうとしていた。

 彼女が二十歳になった頃、彼女は手で足を触っていて、突然、その二つがつながっていること、すなわち、彼女の身体が一つのものであることを、彼女は初めて認識した。

 そして、その時の様子は、次のように描かれている。

 足を手当たり次第に触っていた。突然、私の手と足の両方に同時に生じる内的感覚があることに気がついた。「私が足を感じている」恐怖で私は叫んだ。「私は手と足を感じている!」・・・私は自分の手を腕に移動させ、恐る恐るつぶやいた。「私には腕がある」私は、いつものようにそれを自分の手に外側から感じるのではなくて、内側から感じていたのである。「腕」は表面に質感があるだけのものではなかった。腕というのは内的な感覚だったのだ・・・。

 手を顔の方へもって行った。内的な感覚として、私の顔があった。私の身体、私の手が知っていた質感の連なり、私の目が見ていたイメージ・・・それ以上のものだった。


 これらの記述を読むと、「つながる」ことの大切さがわかる。二十歳になって「その二つがつながっていること、自分の身体が一つのものであることを初めて認識する」には、鏡に映る自分に触れるだけでは不十分なのだ。それは身体の外側の触感に過ぎない。「つながる」ためには、もっと内的な「ある」という感覚が必要だ。そのことに気づくことで、顔や腕からなる一つの身体が自分であることが理解できる。そして、自分が一つの身体だからこそ、自分の感覚、認知、情動がつながり、自己と他者との関係性に少しづつ意味を与えて、「共感」に根ざした社会性を育んでゆくことができるようになる。

 病院のリハビリテーション訓練室には、古くから大きな「姿勢鏡」がある。傾いた身体を視覚的に確認させるためである。姿勢鏡には触覚や運動覚は映らない。最近では、ラマチャンドランの「ミラーセラピー」が注目されている。ミラーには触覚や運動覚は映らない。映っているのは外側の世界だ。片麻痺患者が平行棒内で歩く時、目で足先を見ながら歩くのも同じことだ。
 一方、認知運動療法では、目を閉じて、身体の触覚や運動覚を感じさせる。視覚の世界から体性感覚の世界に、つまり内側の世界に患者を誘う。
 だが、実際には、認知運動療法もまた外側世界で展開されているのかも知れない。そこには視覚の世界を外側、体性感覚の世界を内側と区別してしまう、単純な思考の罠が潜んでいる。
 二つの世界が存在することは認めよう。だが、問題の核心は、それぞれの世界を「つなぐこと」である。二つの世界が確実に存在することと、二つの世界が「つながっている」こととは違う。自己の身体が一つであるためには、世界が感覚、認知、情動的な経験としてつながる必要がある。本来、世界は一つなのだ。この感覚、認知、情動は「精神(思考)」の営みである。身体と精神が一つのユニットにならなければ、二つの世界はつながらない。聴覚の世界を加えれば三つの世界をつなげなければならない。
 そして、この異なる複数の世界をつなぎとめるのは「言語」だと、神経心理学者のルリア(Luria)が言っている。つまり、人間の場合、「言語=意味」が高次な異種感覚情報変換(頭頂葉連合野)を可能にしているのだ。また、言語の起源は身体経験に由来するが、その使用は社会的なものだ。一人では異種感覚はつなげない。社会は自己と他者の相互作用の産物だ。社会は言語という思考を基盤に形成されている。たとえば、住居や車は物体だが、住居は雨に濡れるたくないとか、安心して眠りたいという思考に、車は遠くへ行きたいという思考を基盤に作られている。人間は、こうした思考を一つの身体経験から作り出す。そして、それが一つの身体だからこそ自己という概念が生まれ、他者との区別が生まれ、人間の社会を生きるのだろう。人間は他の動物の世界を生きられない。
 強調したいのは、ドナ・ウィリアムズが告白した、「内的感覚」としての「私の顔」や「私の腕」は、それが「ある」ということへの気づきは、身体経験に根ざした「言語」の改変に由来している可能性である。「一つの身体がある=自己」という気づきは、視覚、体性感覚、聴覚の世界を「言語」によって結んだからではないだろうか? 
 だから、認知運動療法の訓練は、単なる触覚や運動覚の識別であってはならない。訓練では、患者自身の発する「経験の言語」がきわめて重要となる。認知運動療法を行っても、言語を活用しない訓練は認知運動療法ではない。「患者と語る」ことによって「意味」を発見し、患者自身が身体を使って世界に意味を与えるように介入・援助しなければならない。たとえば、患者の発する自己の身体についての「比喩(メタファー)」は、患者が現時点で自己の身体にどのような意味を与えているか、あるいは麻痺した身体をどのように理解しているかを教えてくれる。
 言語は、訓練の重要なツール(道具立て)である。Perfettiは、マスターコースの「秘密を解き明かす言葉たち」と題した講義で、Elio Vittoriniの次の言葉を引用している(訳:小池美納)。

すべての人間は
おそらく言葉が
一つの言葉が
ある物の本質を
変えることができるのではないかと
期待している …
魔法を信じているのだ
真実と理性を求めても
達し得なかった場所に
一つの形容詞によって
達することができると
あるいは
一つの副詞によって
見落とされていた秘密を
発見することができると

 リハビリテーション治療で患者の主観的かつ経験的な言語を活用することは、科学の客観性と対立するもので決してない。バレーラが神経現象学で強調しているように、認知神経科学は「科学と経験がダンスを踊るように」発展すべきなのだ。

 最後に、ドナ・ウィリアムズの言葉を残しておこう。

自分の居場所と呼べるところを
ずっと探しているのに
わたしには見つからない
どこもかりそめの宿、かりそめのわたし
そして少しずつ、わたしは見失う

 認知運動療法は「見失った身体(Perfetti:身体と精神/協同医書,2012参照のこと)」を取り戻す試みであり、言語の活用(患者と語ることの意味)が他のリハビリテーション治療とは決定的に違う。
 医療の世界では、「患者に語る」時のエチケットやコミュニケーションが問題にされる。患者様にどのように話すのかが問題にされる。そんな時間があるなら、もっと患者の「身体の声を聴く」べきだろう。意味を見失っているのは医療者側の言語ではないか?
時には鏡の中の自分に触れて語りかけるべきだ。

 ニューヨークのブロンクス動物園には、霊長類のための特別な建物がある。そこではチンパンジーやゴリラやサルがいる。建物の裏手にはもう一つの檻があり、その檻は鉄格子によって閉ざされていて、こんな看板がかけられている。「世界一危険な動物」。きみは鉄格子のあいだからのぞきこんでみる。驚いたことに、そこにあるのはきみ自身の顔なのだ。人間は、地球上でこれまでに知られているほかのいかなる動物がやったことよりも、自分たち以外の種の動物を多く滅ぼしてきたのだ、という説明が書かれている(バレーラ:知恵の樹:生きている世界はどのようにして生まれるか/管啓次郎訳、ちくま学芸文庫、1997)。

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