認知神経リハビリテーション学会

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メッセージNo.63  「明日なき今日」を読んで、「未来」を想う

 片麻痺の歩行とその治療について考える時、リハビリテーション関係の本や文献よりも、本人が綴った言葉の方が、僕の心には迫って来る。
 たとえば、作家の辺見庸の「明日なき今日(毎日新聞社,2012)」は「3072日の幻視」とタイトリングされた文章から始まっている。

 よろよろと上がったり下りたりする。くる日もくる日も階段の上り下りをくりかえしている。駆け上がるのでも駆け下りるのでもない。そうしたくてもそうできない。息を切らせ、あえぎつつ、這うようにして上り下りる。そうすればとくになにかよいことがあるというのではない。ただ階段をひとりで上り、黙って下りてくる。バカバカしいといえばバカバカしい。バカバカしくないということはない。いやになって休む日もあるが、休まない日の方が多い。そんな階段の上り下りを、いまもくりかえしている。ただそれだけのことだ。だからどうしたという話ではない。エレベーターは使わない。エスカレーターにも乗りません。

・・・・・・

 調子のよい日は手すりにたよらずに上り下りする。手すりに触れずに上り下りできると、ちょっとうれしい気持ちになったりする。手すりのたよりになると、なんだか悲しいと思うことがある。そんなことで内心うれしがったり悲しんだりするのも、バカバカしていといえばバカバカしいのだけれども、そこにこだわるのも空しいので、じぶん、すぐに思いをきりかえようとするのです。

・・・・・・

 上り下りの練習は私鉄の駅ビルの階段でやる。以前はJRの駅ビルでもやったが、家から遠いので億劫になってやめ、デパートやスーパーの階段に移動した。けれど客が多いのでやめて、結局、客足のまばらな私鉄の駅ビルの階段に定着した。

・・・・・・

 ある日、ふと気がついた。もう八年がすぎているではないか。家に帰り電卓で計算したら、正確には八年と百五十二日がたっていた。あの日斃れてから三千七十二日。七万三千七百二十八時間。

・・・・・・

 しかしだ、だからどうしたというのだ。三千七十二日間におけるわたしの主たる行為――階段の上り下り。三千七十二日間におけるわたしの主たる行為の結果は――ほぼ無。
三千七十二日勉強すれば、イタリア語だってタガログ語だって、ちょっとは話せるようにはなるだろう。

・・・・・・

 呆れたことに、わたしは階段の上り下りが少しもうまくなっていない。どころか、数年前よりも下手になっているようだ。三千七十二日間、なにも学んでいない。どうやったらうまく歩けるようになるのか、さっぱり学習していない。むしろ後退している。一時期は階段の手すりなんか意地でもつかまなかった。いまはその意地もすり減ってきて、弱気とたたかうことなく左手がためらいもせずに手すりにのびていく。だからといって、なにがわるいのだ。なにもわるくない。手足がわるいのではない。脳、脳、脳ちゃんの問題でせう。軽い挫折感。もうなじみの徒労感。どうということはない。古い稲藁(いなわら)のような疲労感。どのみち業さらしじゃないか。

・・・・・・

 階段歩きなんか何万回やってもうまくならないのだ。進歩なんかほとんどない。まったくない。それなのに、三、四日怠けるだけで、歩き方が一気に後退する。断崖絶壁にでも立ったように恐怖と緊張でからだが硬直する。三千七十二日たってもうまくならないものが、三、四日怠けるだけで、はじめからやり直しみたいになる。双六のふりだしにもどる、になる。なぜ、と問うても憤ってもしかたがない。詮ない。八年半やってもほとんど前進しない。しかし、三、四日怠けたら、ふりだしにもどる。それが論議の余地ない事実なのだ。

・・・・・・

階段を下りる。上ってきた階段をよろよろと下りていく。目が白く濁っている。

(明日なき今日(毎日新聞社,2012p6-16)』より、抜粋して引用)


 なぜ、目が白く濁っているかは、この本を読んでほしいから書かない。また、この文章は抜粋した階段昇降練習(最近のリハビリでは階段昇降訓練とは言わないそうだ)をテーマに書いたものではない。著者にとってもっと大切な”心の襞”のような何かについて語ったものだ。だから、階段昇降練習についての記述は、僕が勝手に抜粋して引用しているだけである。

 いつもなら、ここでリハビリテーション専門家はこの記述をどのように解釈すべきかと問いかけるのだが、今回はそれをしない。リハ医やセラピストにはわかっていることだ。リハビリテーションがこの現実に十分な治療を提供していないことを、その現実がもう何十年も続いていることを、リハ医やセラピストは痛いほど知っているはずだ。
 僕は、この「明日なき今日」を読んで、自分を想う。僕自身が「明日なき今日」を生きているのではないかと。あるいは、リハビリテーションを想う。そして、セラピストを想う。実は、リハビリテーションが、セラピストが「明日なき今日」を生きているのではないかと。
 何もしなくても明日はやってくる。そう思っている内に、三、四日怠けるだけで、一気に後退するのは、僕自身であり、リハビリテーションであり、セラピストなのだと想う。

それを辺見庸は、「底知れぬ、空無のみが漂う、現在という時」と表現している。


 辺見庸の『水の透視画法(共同通信社,2011)』にも、片麻痺の歩行についての重要な記述があることは、『片麻痺:バビンスキーからペルフェッティへ(協同医書,2012)』の第4章「片麻痺と運動療法の時代」の冒頭のエッセイでも書いたが、これはその続編である。
 そう言えば、昨年、「”なんちゃってPT”がいつも屋外歩行練習ばかりしている」という噂を聞いた。その時も想ったのだが、セラピストは「歩行させることが歩行練習なのだ」と誰かに教えられているようだ。だから、患者たちも「歩行することが歩行練習なのだ」と認識してしまう。また、先日は公共テレビが有名な野球選手のリハビリを取り上げ、「歩行することが歩行練習なのだ」と世間に広めていた。
 それを、僕は、「底知れぬ、空無のみが漂う、現在のリハビリテーション」と表現する勇気があるだろうかと、自問する。
 そして、僕は、ペルフェッティが「運動によって回復するのではなく、運動によって脳を回復させるのが、セラピストの仕事だ」と教えてくれたことを想い出す。
 歩くことを否定しているのではない。そして、それは難しいことではない。歩く時に意識を自分の身体各部や地面の性状(床の水平性、表面、固さ、体重移動)に向け、それを知覚し、細分化するように、くり返し歩けば、ゆっくりと傷ついた脳は回復してゆくということだ。また、この点は整形外科疾患でも同様である。
 それは歩行の運動療法というよりも、歩行の「運動再教育訓練(motor reeducation exercise)」と呼ばれる。認知運動療法も運動再教育訓練の一つだ。
 強調したいのは、運動再教育訓練(認知運動療法)では「意識の志向性」を「身体の意識経験」に向ける必要があるということだ。
 意識の志向性とは「意識の”まなざし”」、「何かに向かうこと」、「能動的な注意」、「外部世界への意識の投射」のことたが、ここで強調しているのは「内部世界の意識経験への”まなざし”」のことである。また、意識経験には感覚的経験、認知的(知覚的)経験、情動的経験がある。そして、意識には志向性があるが、意識経験には志向性はなく受動的総合である。
 歩く時、この意識の志向性を3つの意識経験に向けることによって、その意識経験を細分化することによって、脳はゆっくりと回復し、新しい行為が生まれる。


 意識の志向性も意識経験も脳の主観的な「心的操作」である。また、この心的操作は精神だけのものではない。人間は身体の運動を心的操作に利用する。

 ペルフェッティは、あるインタビューで次のように述べている。

 認知運動療法では心的操作の可能性のうちの一つとして運動を考慮する。心的操作の可能性のうちで、おそらく運動が最も重要だからである。すべての生物システムは、世界との対話における運動の利用可能性を持っている。運動は情報を構築するという目的を備えているからだ。運動は有用な「情報」を環境との相互作用によって共創発し、自己の構造の存続および環境中での自律を、運動の修正によって実践する。

 我々の世界、身体が運動する世界と身体の細分化について考えてみよう。この世界は、環境と身体とが相互作用して情報が創発される世界である。情報の受容表面としての身体の細分化によって、つまり意味ある情報の構築を目的とした身体の細分化によって生まれる世界だ。

 生物のシステムに損傷が引き起こされた時の回復の困難性は、この意味のある関係を創発する能力に依存する。世界と対話する能力の変更に依存する。このように考えると、運動(筋収縮)は、回復の作業によって到達すべき最後の結果であると解釈できる。運動は正確な方法で活性化すべきなのである。つまり、生物システムの組織化の修正や変更は、特異的な筋収縮、つまり身体の細分化を通して、その筋収縮が情報を構築する必要性のある状況で活性化される場合に限り、生物システムの再組織化につながるのである。

 認知運動療法の出発点は、身体各部の移動や全体的な動きではなく、「共創発」、つまり世界を生み出すために、感じるために、認識するために、試みるために、意味ある情報の構築を求める点にある。

 これは患者の中間世界の内部でのみ起こる。身体と環境との相互作用の解釈を生物システムに求めること、生物システムに運動する以前の経験によって派生した感覚と相互作用により終了した感覚を比較することを求めることが重要である。

 私たちは、次のことを信じている。

 私たちのすべての運動イメージの使用は中間世界で起こる。中間世界は患者の異なる、しかしながら可能な脳表象のうちの一つである。それをセラピストのガイドの下で複数活性化し、そうした訓練によって得られる知識から、新しい認知をつくることができると。

 ある正しい行為を達成する能力の回復は、世界に意味を与える能力の関与なしでは起こりえないのだと。


 僕らは、毎日、歩いている。けれど、もうそれ以上、歩行はうまくならない。なぜなら、今のままで十分であり、自分の歩行している世界に新しい意味を与える必要がないからである。既に、脳はその能力を有している。だから、僕らはいくら歩いても学習しない。

 だが、患者たちは違う、 患者たちは学習可能性をもっている。『明日なき今日』を読んで、この「学習可能性をもっていること」が、患者たちの、僕自身の、リハビリテーションの、セラピストの、「未来」だと想った。

 辺見庸氏の回復を祈りながら…
 そして、彼は今日も歩いているのだろうかと想いながら…

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